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書と個性について
(読みやすいように改行を適宜入れています)
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ちと長いですが、これは40年近く前に発行された、当時、東京学芸大学教授であつた田邊萬平氏の『書について』という著書の「個性について」という論考から抜粋したものです。
40年前ですよ、40年。昔っから下手な考え休むに似たりという事ですわw
以下原文。
或る高校の書道の授業を参観した時のことである。教師は何を考へたか、
「今日は大いに個性を生かして、自分の思ふやうに書きなさい」
と言った。
すると男生徒は得意になって、わざとひっくりかへるやうな字を紙いっぱいに書いて、互いに大笑ひしてゐた。女生徒はそれを見て何を書いてよいかわからず、困った困ったと言ってゐた。教師はそれを見ながらさっぱりわからなくなったと言った。笑い話にもならぬ教育惨事である。
藝術で個性を貴ぶのは当然である。個性を否定する藝術などあり得ない。書も藝術である以上個性をいかさねばならぬ。ところが何が個性かといふと、人によってその理解がまちまちである。高等学校の指導要領でも、個性を活かすといふことは示してあるが、何が個性かについては一言も触れていない。
手本を臨書するのに、そっくりそのまま書けといふ。ところが少しずれる。そのずれた部分に対して、或るときは朱で直し、或るときは個性だといって褒める。もしずれが個性だとしたら、下手な人ほど個性が強く、知能の低い者ほど個性に恵まれてゐることになる。果たしてさうだらうか。個性とはそんな薄弱な人間に与するものだらうか。そんな無気力なものではないはずだ。
また、個性とは風船玉みたいに、ちょっとした思ひつきで、膨らましたり萎ましたりできるものだらうか。手品みたいに出したり引っこめたりできるものだらうか。いったい個性とは何なのか。私は思ふ。個性とは創造の主体である。言ひかへれば創造力そのものである。想像力の働く方向に二つあり、一つは受け入れる力、もう一つは打ち出す力、即ち受容力と発現力である。創造はこの二つの力、
実は一つの力の二方向によって行はれる。一般には発現力のみを創造力と思ひ、受容力も創造力であることは見遁してゐる。すべて受容して後に発現し、発現するために受容する。書の場合、臨書して他人の手法を学ぶのは受容である。鑑賞して他人の心情と造形に共感するのも受容である。
受容は食ひ求めることであるが、何を食ひもとめるかはそのひとによって皆ちがふ。同じ法帖を同じ指導者に就いて研究してゐても、おのおの食ひもとめるものはちがふのである。Aは己の軽薄を矯めようとして、沈着を求めてゐるのに、Bは己の鈍重を矯めようとして、筆勢を求めようとしてゐる。同一の法帖が相異なる目的のために使用されてゐると言ふことは、AとBの受容の態勢が異なるからである。そこに個性がある。それが創造の一つの方向である。言ひかへるならば、まず何を求めてゐるかといふことが個性の創造作業である。求めておのれの身につける、それも個性の創造作業である。
この受容の創造作業を充分に為し遂げなければ発現作業即ち個性の表現活動ができないといふわけではない。受容が乏しければ乏しいままに発現はできる。だから小学校の一年生でも書の個性的表現は出来るのである。何にも受容してゐなくては表現できぬけれども、何か受容していれば、必ず或る個性的な表現はできる。なぜならば受容の方向や態度に個性があるからだ。
つぎに表現における個性であるが、それはむしろ無心、無意識の下に活動する。己の身についたものが意識の下で活動することはかへって困難である。意識は己の身から離れやすいものだ。無心、無意識の下に個性は創造の作業を遂げる。したがって個性を活かさうとする作業からは個性は去り、ただ全力を打ち込んで字を書く無心の中に個性は遺憾なく正体を現す。いのちを打ち込んで作業するといふこと自体が自然の意志であり、自然の意志が創造であり、それが個性だからである。精一杯いのちを打ち込めば無心、無意識になる。書にいのちを打ち込めば、己と書と一つになるからだ。一つになるといふことは己が無心になることである。己と書が対立して、己のはからいでいろいろに書けるといふ間は、ああ書かうかかう書かうかと考へられる。個性を活かさうか殺さうかと考へられる。考へられる間は、観念の遊戯である。観念の遊戯は個性の創造ではない。個性は遊戯をゆるさない。真剣に創造の一本槍である。
書かれた作品が、いかに創造を為し遂げてゐるかどうかかといふことは、作品の個々について見なければわからぬ。臨書のずれなどは少しも個性を説明してはゐない。また個性を活かさうとしたり、出さうとしたりする遊戯は個性とは無関係である。個性とは創造力そのものである。
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