なぜ武田双雲を書道家と呼んではいけないのか

武田双雲は「書道家」ではない。 武田双雲を「書道家」と呼んではいけない。 その理由を多角的に検証する。

2009-11

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大河ドラマ題字揮毫がもたらすもの(2)

さて、

武田双雲大河ドラマ天地人」の題字担当に起用されたことで、
なぜこれほどたたかれ、批判され、大河ドラマ題字に相応しくないと猛攻撃されるのか。
それを、先に挙げた菊池氏、だん氏と比較しながら考えてみたいと思う。

大きな理由の一つは、やはり、知名度があるということだろう。
武田双雲は数多くのテレビに出演し、雑誌等にインタビューが掲載されると同時に、
多くのポスターや商品ロゴが「武田双雲揮毫」という説明とともに使われていて、
世間に武田双雲の存在を知らせる多くの情報が転がっている。
つまり、武田双雲という名前、武田特有の文字、そしてその人物像や考え方が、
ある程度世間に浸透していると考えられる。

一方菊池氏やだん氏については、ネット上にほとんど情報がない。
菊池氏が担当したNHK「クローズアップ現代」のロゴや、
だん氏が担当した「本格むぎ焼酎いいちこ」のロゴデザインなどについても、
いずれも有名なロゴではあるが、ロゴの使用に際してそういった情報は提供されていないわけだから、おそらくほとんどの人は書き手についてご存じないであろう。
つまり両氏は大河の題字を揮毫したという実績があっても、また「書道家」として活動していても、
現在のところ世間に対する影響力はそれほどない、と思われる。



次に、上の理由とも関連することだが、
武田双雲が「書道家」だと名乗っていることだ。

以前にも述べたように、本来は「書家」という呼び方が正式なものであるが、
最近ではそれを「書道家」と呼ぶ人も多くなり(これは武田双雲が「自分の道を作るため」と称してそう呼ぶ場合もあれば、「書道家」という呼び名が一般的として使用している場合もあるように思う)、世間は「書家」と「書道家」がほぼ同じ意味として認識しているという風潮がある。そのため、本格的な「書家」でさえ、たとえば自身のHPにおいて「書家書道家)」というように、書道家という呼び名を使わなければ検索にヒットしにくい、すなわち世間に認識されにくい状況も生んでいる。

それにより、本来書道を生業とする人を「書家」と呼ぶのにかかわらず、
書道家」という言葉が「書家」という本来の言葉より一般に認識されつつあり、
武田双雲のような「書道家」の使い方を含む「書道家」と、本来の「書家」が仕方なく「書道家」という言葉も使っている状況も、一緒くたに認識されてしまっている。
つまりメディアおよびインターネットを通じて広められている武田双雲の揮毫したロゴや作品、書道に関する考え方までもが、
書道家書家」という一つのカテゴリの中で発生したものだと一般に捉えられる可能性が高い。
つまり、書道家と名乗る他の人と同じ方向性、同じレベルでその言動が捉えられやすいということだ。

その際、いくらその本人が「一般的な書家/書道家と違う」と言ったところで、
書道家」と名乗る限り、世間からのそのような認識からは逃れることはできない。
つまり書道家という呼び名が浸透している背景により「書道家=一般的な書家」として認知されると同時に、その言動、作品の質において一般的な書家(=書道家)と著しく異なる場合には、同じ書家/書道家あるいは一般からの批判を受けることは避けられないということである。


武田双雲の場合には、

・自らを「書道家」と呼んでいるが、その作品の質および言動が一般的な書家のカテゴリから大きく外れていると思われるものが多い

・その一般的な書家のカテゴリから大きく外れていると思われる作品の質・言動が、武田双雲のマスメディアへ頻繁に登場することや、それによる知名度の大きさから、同じカテゴリに属している他の書道家書家、そして本来の書道の捉えられ方にまで影響を及ぼしかねない

・NHK大河ドラマという、国営放送の看板番組の題字を担当するということは、武田双雲が自ら名乗る「書道家」としての作品の質および言動に問題がないというメッセージをNHKが世間に与えるということになりかねない
(実際、10月4日に日本テレビ系列で放送された「日テレ系人気番組集合世界一受けたい授業!!1億人の国語算数理科社会SP」では、武田双雲を紹介する際、例の「龍華翠褒賞」、イタリアフィレンツェ「コスタンツァ・メディチ家芸術褒章」の受賞歴は紹介されず、NHK大河ドラマ天地人」の題字担当、と紹介された。つまりこの実績によって、「いかがわしい」受賞歴がなくてもそれなりの人物であると信じ込ませられるほどの威力があることを示している)

ということから、これほどの批判がなされているのである。
以上長くなってしまったが、これが武田双雲がNHK大河の題字に起用される「意味」と、その起用に対する批判の理由である。
間違っても、武田双雲メディアに頻繁に登場することや書道家として知名度が高いことに対する妬みやっかみから発生するものではないことを、強調しておきたい。



前回に触れた、NHKからの回答を再度見てみよう。

・過去に大河ドラマでは書道家ではない方が題字を担当したケースもある
・あくまで書体と作品内容の合致という点から選定を行っている
・受賞歴や権威などといったものではなく、内容を重視している


ここからは、「書道家でなくても、よい内容の題字を採用している。今回の武田氏の題字は作品内容に合致しているから採用するのであり、書道家であるかどうか、受賞歴があるかということは不問」
というメッセージが読み取れる。

しかし武田氏が「書道家」として活動している以上、その作品は「書道家」によるもの、と一般的には認識されるのである。


それを踏まえたうえで、例の「天地人」の題字を見てみよう。
http://www.nhk.or.jp/drama/html_news_tenchi.html

書道関係者の方が何人かご自身のブログでコメントされているので、それを転載させていただく。


書家の日々つれづれ−独立書人団・秋の独立選抜書展と‥‥武田双雲氏作品NHK天地人

飛白体が使えなくて、2文字に書く天の上。
力だけで書いているから線に伸びがなく、非常に弱い線質。「人」に至っては、書体字典にもない文字。
多分、墨など使っていないのではないか。

良くて墨汁にポスターカラーを混ぜたものだろう。
だから、擦れが荒れて細い線が出ない。
そのうち詳しく検討しよう。

こんな文字を書くと、多分臨書はほとんどしたことがないと分かるから不思議なものだ。
そして、決定的なものは「品がない」。
独立書人団の先生方には申し訳ないが、比較してみるとその差が歴然とする。




(‡ー・_=)y−くたばれ2ちゃんねる−武田双雲の「国際賞」はカネで買える

寸評:駄作
・起筆で押さえすぎ。
・無意味に線を曲げすぎ。
・払いは筆が速すぎ。
・転折での筆の吊りと返しが出来ていない。
・字の懐が狭い。
・末尾を上げるが余分。
・「天」の第一画を「口」にする「天」という字はない。
・「地」の「土」と「也」が接した「地」という楷書はない。
・「人」の第一画を「く」の字に曲げる「人」という字はない。
・「人」の第二画を掠れて広下げる「人」という字はない。

・落ち着きが無くせこせこしているように見受けられます。全体にゆったりと大きく腕を動かし、字の懐を大きくとりましょう。誤字は不可。審査対象外です。書道を初めたばかり半年ぐらいの技量と思われます。もし十年以上でこれでは、指導者の技量が問題かもしれません。指導者を変えるなり、古典臨書をするなど字の成り立ち基礎から学び直しましょう。


まずはこれら古典を臨書することから始めないと、書の良し悪しが判る入口に立てません。形をそのまま真似る形臨が出来てからでないと次の段階には行けません。 書家ともなればその次の段階である意臨、背臨を経て独自の書体を作りだす事をします。しかしながらその独自の書体でありながらも古典の名残を何某かとどめるものです。そうでなければ我流の癖字。人に教える技量はありません。己の師が書く手本を真似るだけの内は、半人前です。一人前にすら成っていません。
古典を臨書せず名乗る書家は偽者以外何者でもありません。
あまつさえ、書道教室と擬装し、そこで布教活動をするなどもってのほかです。




書家の日々つれづれ−日テレ「世界一受けたい授業」武田双雲氏の極意の不思議2

もう一度、「天地人」を見てみようか。

これを見てみると、文字に対する筆の動きが不自然であることに気づく。
それに、終筆の収まりが悪く、「動」を書いたように力が抜けてしまっている。
そして大きく感じるところは、非常に「平面的」であることだろう。

3日にエントリーした独立書人団の書を見ても分かるように、普通書家の文字は全て筆が紙にくい込むように書かれいてる。
なぜそうなるかというと、筆が立っているからである。
紙に対して側筆を使わず、直筆で紙にくい込むように書いていると言うことである。
だからよく比較してみると立体的なのである。

(中略)
それにしても‥‥
近年、武田氏の経歴を真似た経歴を出して書家と公言する人物、又武田流の「文字」がよいとして同様な文字を書いて書家という半芸能人など。
何やら、良くない傾向の風潮が現れたのには困りものだ。


‥‥‥‥‥‥
種々の意見を見てみると、「天」の1画目が長いという指摘がある。
角川・書道辞典(伏見冲敬編)を見てみると、楷書の「九成宮」からはじまって、禮器碑まで1画目が長いものは楷書、隷書、行書、篆書など一つもなかった。
そして、よくよく見たら「活字」が1画目が長い。
それで色々書物を探してみると、いわゆる実用書というか教科書体の類にそう言う文字があった。
(中略)
一般の実用書道の書き方の本には、この様に上の1画目が長い。
ところが、実用硬筆「行書」では、1画目が短い。
その論から言えば、行書なら1画目が短いのが基本だと言う事だ。

要するに、普通に書道をやっている書家は絶対に書かない文字と言う事になる。
このことから、「天地人」の文字は書道家の文字ではなく、デザイン文字というものだろう。それを書道家の「書」の見本とするからおかしな事が起こる。




ここで、徳明様からのご寄稿も掲載したい。

天地人」に関して意見するならば、「書体と作品内容の合致という点」以前に誤字の可能性も指摘できるでしょう。
確かに現代の書表現は多種多様を極めておりますが、それは「作品」においてです。
このようなクライアントからオーダーのある題字等は「作品」では決してありません。
まして大河ドラマ題字ですから、万人が読める可読性と文字の正確性がある程度求められている事は必至です。

そうした場合に、全体として文字を崩していない(恐らく双雲は他の書体を書けない)にも関わらず、「天」の三画目を不必要に延ばしている点は「書体と作品内容の合致」の範疇を超えていると言えます。

まして書塾やテレビにおいて小学生に書道を教えている立場です。
子供達が習字の時間にハネやトメの基本動作を習うはずが、「天」の三画目や「地」の六画目
のように異様に伸ばしていたらどうでしょう。恐ろしい事です。
文字の歴史、または文字学の上に則った表現は表現として成立しますが、その範囲を逸脱したもの、しかもそれが作品ではなく題字なら、表現として成立していません。
つまり双雲氏の題字題字の役割を果たしているとは言えず、更に文字の正確性の観点から誤字に近いと言えます。

文字の歴史への冒涜ともいえるこの暴挙を、NHKは大河ドラマの看板として掲げているのですか?という事です。
皮肉として言うなら「書体と作品内容の合致という点」というのは誤字の題字と史実を無視したドラマ内容との一致ですか?と尋ねたいところです。

ドラマはフィクションですから、確かに脚色が付けられる事も多々あるでしょう。
しかしそれが歴史ドラマの場合、やはり史実に基づく努力が必要ではないでしょうか。
その範疇の中において自由な表現があるのだと思います。
だとしたら題字も同様に、文字の歴史や文字学の上に表現されるべきです。
なぜなら書にはそれ相応の歴史と文化が存在するのですから。それを「書体」や「雰囲気」など、全く無知で根拠のない言葉で片付けるのは、NHKとして許される事ではありません。



テーマ:書道 - ジャンル:学問・文化・芸術

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