なぜ武田双雲を書道家と呼んではいけないのか

武田双雲は「書道家」ではない。 武田双雲を「書道家」と呼んではいけない。 その理由を多角的に検証する。

2009-11

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書と個性について(3)

書道個性について、もう少し思考を深めてみたいと思う。

現代書の父といわれる比田井天来氏の「書の伝統と創造 天来翁書話抄」(比田井天来著、比田井南谷編集・校訂 雄山閣)から、興味深い文章を引用してゆく。

「初学者のこころえと臨書の方法」より。

第一期の臨書は、絶対的手本本位というてもにせもの書きのようになってはならぬ。自己の主義を確立して、その範囲内において、似るだけ似せるのに止めるのである。
人間は芸術のみならず、すべてのことに自己というものがなければならぬのであるが、たいがいはこの自己がじゃまになって、これがために失敗に帰することが多いのである。また多くの人は、自己流を出さないようにしても、自己流になりたがるものである。よほど聡明叡智の人か、あるいは専門的の学問芸術に徹底していて、ほかの学問芸術における知識はなくても、自己の修めた学問芸術の経験により、これがために人格まで向上し、聡明叡智の人と同様なる判断を下しうる程度に頭脳の発達した人でないかぎりは、初学者の芸術における考えは、たいがい的をはずれてかならず低いところに目をつけているものである。「百里を行く者は九十里を半ばとする」という諺のごとく、第一期の初学時代は、その人の器の大小が定まるときであるから、充分勉強しなげればならぬ。ことにうぬぼれの強い人、またはわがままの人は、その低い鑑識力の自己を本位として、おのれのしゃくしじょうぎに合わないものはことごとく排斥するから、自己はいく年経ても、いぜんとして小さいままの自己である。かくのごとき性質の人は、第一期の修業にいっそう骨が折れる。並の人より三倍も五倍も努力して、この小さい自己を痕迹のないまでに撲滅して、まったく無我の境地にいたることのできるまでは、けっして第二期にうつってはならぬ。ここで充分骨を折れば、うぬぼれもとれるしわがままもなくなる。



第二期に移る前がもっとも肝要の時期である。第一期において充分に勉強すれば、大家の書は形が違っても各々一つの妙所をそなえていることがわかり、一時はかならず好き不好き(ぶすき)というものはかならずなくなってしまう。それと同時に、拙書には拙中に妙あり、巧書には巧中に俗あり、巧と拙といずれがよいのか方角がわからなくなる。これがもっとも大切なときで、またもっとも危険のときである。進歩するのも堕落するのもこの時期が境界線になっている。この時代を称して第一期の迷時代という。この時代にまじめに勉強を継続すると、初学のさいに見ていた巧拙は真の巧拙ではない。真の巧拙は動かすべからざるものであるということがわかる。また大家の書にはかならず共通する一定の法則がある。ゆえに有名の手本は、点画結体が全然違っていてもかならずその妙を同じうしていることもわかってくる。この時期に到達すると、ふたたび初学時代とおなじように好き不好きが自然に出てくる。これがすなわちその人の天稟(てんりん)に近いものである。大家の書の共通点たる一定の法則を求むるには、執筆用筆の二法はもちろん紙の強弱から筆の剛柔長短にいたるまで、自己の信ずる著名の法帖を臨書する場合に、いちいち比較研究をして見なければならぬ。このときにおいて、やや自己というものを少しばかり認めることができるので、それ以前は、まったく自己を忘却してかからねばならぬ。農業にたとえると、第一期は土地を肥やす時代であるから、名家の碑帖を無我無心に模倣し、なんびとの書でもそのとおりに書いてみてその書きぶりを覚え、いかなる筆意でも結体でも自由にまねることのできる素養を作るのである。この素養ができあがれば、充分肥料をした土地が準備されたようなものである。土地の準備が出来上がり、いよいよ植え付けに取りかかる。これがすなわち二期である。その前にいま一つ大仕事がひかえている。その仕事というのは、これまでの修業で自己の天稟もだいたいわかり、やや自己の目標地も定まってきた、それがすなわち蒔きつけをする種子となるのである。ただし種子にも善悪があるから、その選択を充分にせねばならぬ。せっかく蒔いた種子に芽が出ても、びょうきのあるものもあろうし、または発育の悪いものもある。いよいよ育てる苗を決定した後では取り返しがつかぬから、このさいにもっとも注意しなければならぬ。ここにおいてか古来大家の共通点たる一定の法則を発見する必要があるのである。この蒔き付け時期は個性発揮の萌芽期で、一番大切の時期である。



せっかく名人の書を学んでもなんにもならない。一家によれば奴書となり、数家を平均すれば平凡になる。しからば時間をつぶして名人の書を学ぶのは愚なことである。むしろはじめから名人の書に似ない形、または似ない筆意の文字を創作してこれに熟練すればすなわち大家ではないかという反問が生じてくる。ただに反問ばかりでなく、現にかくのごとき誤りにとらわれている芸術家がたくさんある。
これは芸術と考案とを顛倒したもので、芸術としては邪道といわねばならぬ。芸術を大成するには独創的の考案の必要なるはもちろんであるが、すべて芸術の進境順序は博覧と自得に始まり、発見となり悟人となり考案工夫となり練磨熟達となり、しかるのちに創作となりて現るるのである。考案工夫は博覧、自得、発見、悟入の境界を経過したるのちに、はじめて創作芸術の一要素をなすので、単独の考案工夫はもとより智の部分に属して、ただちにこれを芸術として見ることはできぬ。博覧にして学ばざるものは鑑識者となり、一家を自得する者は奴書となる。たとえよく博覧自得の二境を経由するも発見にとどまる者は議論家となり、悟入にとどまる者はほらふきとなり、考案工夫にとどまる者は未成品に終る。練磨熟達してしかるのちに創作芸術の域に達し、はじめて家数に列すべきものである。




簡単にまとめると、以下のようになる。

・名家の碑帖を無心に模倣する「臨書」によって、さまざまな人の書きぶりを覚え、どのような筆使いでも真似ることのできるほどになるようになることで、自分の癖や好みを一旦捨てて、書の基本というものをきちんと身につけることがまずは大切である。

・その基本を身につける「第一期」の段階で充分に基本的なものを吸収することでその人の「器」の大きさが決まってしまう(うぬぼれが強かったりわがままな場合は、充分に吸収することができず低い自己のままでとどまってしまい、第一期での修練に非常に苦労する)

・第一期=手本をきちんと真似ることができる、すなわち基本をきちんと吸収できた段階で、ようやく素晴らしいといわれる書に一定の法則があることが見えてくる。ちょうどその頃に、自己の方向性が見えてくるようになり、書における「個性」が芽生えてくる。

芸術というものは、もちろんその人なりの個性なくしては芸術とはいえないが、(書においては)さまざまな素晴らしい書を見、臨書によって書きぶりを学び、自分の力で書の基本、そして名書における妙の一定の法則を悟り、その後自分の個性を見出してその個性を発揮するために修練を繰り返し熟達することで、創作として現れるものである。その順序を抜かして、名書の一定の法則を悟ったと言うだけ、ただ自己流で考案した書を芸術だといったところで、それは芸術とはいえない。

コメント

武田双雲のような詐欺師同然の輩に関わっていながらも、
このような名文に出会い、学べることに感謝せずにはいられません。
本当にありがたいことです。
現今の誤った低俗な「個性尊重主義」に歯止めをかける上でも、
斯くの如き名文は必要不可欠です。
真理は時代を経ても変わらないのだという事がよく分ります。

ありがとうございます。私自身が書のたしなみがないため、芸術の書に関する理解を深めようとこの本を購入したのですが、とても興味深い文章がたくさんあり、非常に楽しみながら読んでいます。今回も文章は多いのですがどれも重要と思われるので引用させていただきました。後日また別の箇所について引用してみたいと思っています。

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