なぜ武田双雲を書道家と呼んではいけないのか

武田双雲は「書道家」ではない。 武田双雲を「書道家」と呼んではいけない。 その理由を多角的に検証する。

2009-11

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書と個性について(2)

先日掲載した「書と個性について」について、その意図を汲み取っていただきにくいかと思うので、若干コメントをつけておきたい。

武田双雲の書道指導法は、従来の指導法と異なり「個性を引き出す」とよく言われている。
しかし、書道において「個性を引き出す」とは、人と違った書き方をすることをさすことだろうか。
そもそも書における「個性」とはなにか。
また、それらの指導法、例えば「下手文字大会」であったり、テレビでやっているような「リレー書道」「二人羽織書道」には根拠があるのか、非常に疑問である。どこかで「書は線の集まりに過ぎないということを理解する」とのことだったが、それが根拠としたら、線の集まりに過ぎないことを理解する以前の「基本的なこと」も、きちんと教えてのことだろうか。
先日拙ブログにも、地方で書道教室を開かれている方から「昨今の双雲なども言っている「下手でもいい」とか「個性のある書」とかの弊害も感じています。 学校の書写授業で、こういって指導する先生がいるそうです。 「基本が出来ていない人に個性的な字は書けませんよ。」と指導しますが、生徒は「学校の先生は自由に書いたのが良い言ってたよ〜」なんて言う始末です。 」といったコメントも頂戴している。


そういったことを考えつつ、田辺氏の「書と個性」を読んでみよう。

個人がその自らの持つ特性、すなわち個性を発揮する際に、どんな場合においても「受容する力」と「発散する力」が必要だと思う。
美術家なら、模写や模刻は受容であり、創作活動は発散であることは異論がないだろう。

その部分が先の「書と個性」には

私は思ふ。個性とは創造の主体である。言ひかへれば創造力そのものである。想像力の働く方向に二つあり、一つは受け入れる力、もう一つは打ち出す力、即ち受容力と発現力である。創造はこの二つの力、実は一つの力の二方向によって行はれる。一般には発現力のみを創造力と思ひ、受容力も創造力であることは見遁してゐる。すべて受容して後に発現し、発現するために受容する。書の場合、臨書して他人の手法を学ぶのは受容である。鑑賞して他人の心情と造形に共感するのも受容である。


と書かれている。
つまり、「臨書=素晴らしい書を模倣する作業」は書道において受容力をつけること=創造力を培うのに欠かせない作業であるということだ。

もちろん、
「この受容の創造作業を充分に為し遂げなければ発現作業即ち個性の表現活動ができないといふわけではない。受容が乏しければ乏しいままに発現はできる」ということだが、乏しいままに表現したものと、受容による創造作業が十分に行われたうえでの表現とは、大きく異なってくることは明らかだろう。

そして田辺氏は

無心、無意識の下に個性は創造の作業を遂げる。したがって個性を活かさうとする作業からは個性は去り、ただ全力を打ち込んで字を書く無心の中に個性は遺憾なく正体を現す


己と書が対立して、己のはからいでいろいろに書けるといふ間は、ああ書かうかかう書かうかと考へられる。個性を活かさうか殺さうかと考へられる。考へられる間は、観念の遊戯である。観念の遊戯は個性の創造ではない。個性は遊戯をゆるさない。真剣に創造の一本槍である。


と言う。
ここで言われている「個性」は、武田双雲の言う「個性」とはずいぶん違うような気がしないだろうか。「個性を生かそう」として書いたものには、個性は宿っていないということなのだから。


「『書』を書く愉しみ」でも「臨書をすることは確かに素晴らしいことです」としながらも、「他人の作品を模倣することが最終目標となってしまうことが危険なのです」と戒め、「あくまでも個としての自分を表現する、体の中からあふれ出てくる力を言葉に文字に変換し、筆で表現していく作業こそが真の書道の魅力」ともっともらしいことを言っている。
しかし結局はその弊害や「旧来の臨書ルールの問題点」の指摘が多く、臨書の奥深さにまでは触れてはいないため、「臨書をしすぎることはよくない」「お手本にしばられるのはよくない」というところで主張がとどまってしまっている。それは武田氏自身がその臨書という行為をおそらく真に理解していないからではないかと考えられる。

田辺氏の述べるように「臨書」(これは古典のみの臨書を指す言葉ではない。「『書』を書く愉しみ」ではわざわざ古典を臨書するだけではない、と指摘しているが、それはほとんどの書道家なら承知していることだと思われる)によって他人の手法を受容してゆく。ただ無心に他人の手法を受容するそのときに、自分はこうしたいけどこの人は違う、といった他人と自分との埋められない差異、あるいは自分の志向性が明らかになる。それが個性ではないだろうか。田辺氏の言う「まず何を求めてゐるかといふことが個性の創造作業である」ということである。

つまり、そのような自分と他人(あるいは書の王道といえるもの)との差異についてぎりぎりのところで向かい合わなければ、書における個性は創られないともいえる。
そのような作業を経て、今度は真剣に書に向かう「創作」のときになって、はじめてその個性が現れてくる、ということなのだと私は思う。

お遊びのような文字との戯れだけの中では、そのような個性は生まれてこない。
ただし、お遊びの文字との戯れの中でも受容するものはあり、その受容されたものによって作られた個性を創作によってそれなりに吐き出すことは可能だ。
しかしそこで表現される「個性」とは、あまりにも稚拙な、薄っぺらいものだ。
そして「書道」とは、そのような稚拙で薄っぺらい創作を目指すものでは、決してない。


或る高校の書道の授業を参観した時のことである。教師は何を考へたか、
「今日は大いに個性を生かして、自分の思ふやうに書きなさい」
と言った。
 すると男生徒は得意になって、わざとひっくりかへるやうな字を紙いっぱいに書いて、互いに大笑ひしてゐた。女生徒はそれを見て何を書いてよいかわからず、困った困ったと言ってゐた。教師はそれを見ながらさっぱりわからなくなったと言った。笑い話にもならぬ教育惨事である。



私にはこの田辺氏の描写が、武田氏その他の「個性」を看板に掲げる創作?書道教室で繰り広げられている光景とだぶって見える。


<追記(2008.10.27)>
現在メディアにも出演するなどして活躍している森大衛氏、および柿沼康二氏が書や個性について述べている文章があるので、ご紹介したい。

森大衛インタビュー−芸術新聞社「墨」第178号特集「書のニューウェーブ」より

「その人の個性だから好きに書けばよい」と"心"や"感情"に酔い過ぎるのは危険なんですよ。"
感情"と"感性"は似ているようで異なるものです。難しいのは当たり前。スポーツも音楽も「自分がよいと思うならそれで良い」と思った時点で、向上心がストップしてしまうんですよ。



柿沼康二Fole2008年11月号 書の世界−文字の超越 「心」

書家にとって臨書は呼吸で言う「吸う」作業、創作は「吐く」作業。たくさん吐き出すには思いっきり酸素を吸い込む外ない。一見相反するようなこの二つの作業が渾然と融合し連動し呼吸となって始めて、最高のパフォーマンスを掴むことができる。
「臨書」は、ややもすると没個性的と履き違えられがちであるが、人の顔が皆違うように古筆の書き手と同じものは何一つなく、造形上も精神的にも完全にシンクロすることは永遠にない。その違いを時をかけて見出し、否定してもしきれないものが己の個性の芽生えとなる。即ち模倣と創造は表裏一体。臨書とは創作であり、模倣とは創造の「ふるさと」。今作品はそんな「ふるさと」を感じさせる作品、言いかえれば創作であり臨書作品でもある。

テーマ:書道 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント

洵に以て偏らず、冷静かつ丁寧な解説でよく理解できます。
こちらのような論調は、どのような立場の方でも受け入れやすいのではないかと思います。
生徒さんなど双雲氏サイドの皆様方にも、冷静に、ゆっくりと、一語一語噛み締めながら、こちらの文章を読んでいただきたいと切に願います。

大五郎様、
コメントいただきありがとうございます。
書における個性については、個性偏重の世の中にあって、冷静に見つめる必要があるのではないかと思います。ご意見などありましたら、ぜひ投稿お願いいたします。

習字の指導法

個性、自由、楽しい、、。

書における指導法を考えた際に、これらの言葉をどう扱うべきか。
興味深い対照がありますのでコピー&ペーストでご覧ください。


「書の空」双雲氏の習字教室による展覧会のホームページです。右側のプレスリリースをクリックすると、双雲氏の主張を確認出来ます。
http://www.syonosola.com/

書道家、森大衛氏のインタビュー記事です。媒体は書道雑誌「墨」。「何でもありは、結局なんでもない。」という主張が掲載されています。
http://www.ctt.ne.jp/~david/shodow/sumi_mini.html

さて、どちらが本質を捉えているのでしょうか。是非、習字教室の先生や生徒さんの意見を拝聴したい所です。


>徳明様、

情報ありがとうございました。森氏のインタビューは以前私も取り上げましたが、今回の記事に関しても興味深い記述がありましたね。また私のほうでも柿沼氏の興味深い記述を紹介しようと思っていたところでしたので、追記として共に引用いたしました。

追記です。武田氏の習字のお手本文字に対する批判を森氏がブログ上で行った事に関する記事です。「日刊サイゾー」
http://www.cyzo.com/2008/11/post_1139.html

その記事に森氏当人は「武田氏の文字とは知らなかった」としています。意図的だったのか、あるいは反応が多すぎたので火消しに走ったのか、真偽の程は分かりません。しかし少し書道を学んだ者が予備知識なしにあの文字を見れば、まさか書家の文字だとは思わないでしょう。中学生が失敗した文字くらいに思うのが普通だと思います。
http://mori-daiei.cocolog-nifty.com/

やはり自由だ個性だと騒いだ所で、技術的な面の圧倒的な貧しさは誤摩化しきれません。いくら素人が大風呂敷を広げて割烹料理を作ってみたところで、美しく美味しいものを作れないのと同じ理屈です。当たり前の事ですが。料理だと美味しい不味いの判断が容易でも、書の場合はそれを判断しづらいのも、このような状況に陥ってしまった要因かもしれませんね。

徳明様、情報ありがとうございました。
私も3日の時点で情報は見ており、その反応もいろいろと見ていたのですが、記事にするのに時間がかかってしまいました。
森氏が意図的だったのか否かについては私もわかりませんが、やはりこれまでの経緯や辛口の添削だったこともあり、騒ぎが大きくなってしまいましたね。しかし、武田氏の文字であることが明るみになったあとも、きちんと批判された森氏は立派だと思います。
まだこの「事件」は収束していないので、私はこの件は今後も冷静に見ていきたいと思います。

はじめまして

興味深く読ませていただきました。

このように、武田双雲氏の批判を整理されると読みやすく、助かります。

さて、「個性」についてですが、(書道を行う)「主体」をどう捉えるのかに関わってくるのかな?と思いました。「主体」にもいろんな種類があるらしく、職業芸術家はその中の「従属的主体」に該当し、「主体的ではあるが、主体性が発揮される枠組みそのものが外から与えられている」とのこと。芸術家だけではなく、大人や個性的教育もこれに当たります。

なので、「個性をしぼりだす人、個性的であろうとする人」は、決して真の意味では個性的ではないんです。

武田氏の「何にも依拠することなく(あるいは依拠するのがデタラメ)、自分の思いを吐き出せ」というのは始めから無理があるということです。

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