なぜ武田双雲を書道家と呼んではいけないのか

武田双雲は「書道家」ではない。 武田双雲を「書道家」と呼んではいけない。 その理由を多角的に検証する。

2009-06

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Yahoo知恵袋の疑問と日本習字

現在も2ちゃんねるに武田双雲に対する批判スレは続いている。
しかし、以前と違い、幾つものスレに枝分かれしてしまい、発言が分散して議論が活発になりにくい状況を生んでいるようだ。
現在存在しているスレは以下の通りである。

【書道家?】武田双雲の呆れた悪行10画目【詐欺師】(芸能板)
※5画目まではミラーが存在するが、6画目以降はミラーがないため、
6画目以降の過去レスは通常のブラウザでは読むことができない。
「NHK大河」題字/武田双雲の国際賞はカネで買える(大河ドラマ板)
【現代書道】武田双雲【書聖】 (芸術鑑賞板)
【書聖】 天才書道家 武田双雲 【書神】(芸術鑑賞板)
【人気書道家憎し】武田双雲にたかる悪行 1画目(芸術鑑賞板)

このうち1つ目の芸能板と2つ目の大河ドラマ板は発言したレスにIDがつくようになっている。
「武田双雲の呆れた悪行・・・」はもともと芸術鑑賞板にあったがIDは表示されない。
8,9画目あたりで武田双雲擁護派などの悪質な連続書き込み(「荒らし」)が発生し、
それを防ぐためにIDのつく芸能板に移動したということらしい。
事実、現在の10画目のスレには、擁護派などによる「荒らし」は激減した。


最近では、Yahoo知恵袋に武田双雲に対する疑問の声が多数投稿されている。
やはり「天地人」の題字により、疑問を持つ人が増えたように見える。

最近の若手書道家についてです。

書家 武田双雲さんについて あの人はそんなに上手いのか?

書道に関心のある方に質問です。私は長年書道を愛するものですが、あの「武田双雲」の字は基礎を無視していると思います。もてはやされる理由を教えてください。

商業書道家の人たちは、書の基本を基に、五感に訴求するイメージ付けをされていますが、広告としての貧弱な気がする武田双雲の書について、どなたか商業書道の観点からどう思われるか解説頂けませんか。

NHK大河 天地人の題字 歴代の題字と比べてずいぶんと格が下がったとおもいませんか...

Wikipediaの武田双雲の項目の備考の欄がきもちわるいです。批判を書かれる度に誉...※注1(下記)

関心空間」のサイトもそうだが、ここまで批判の声が挙がるのも珍しいのではないかと思う。

Yahoo知恵袋の質問の一つで興味深いものを紹介したい。
Yahoo!知恵袋 書道家武田双龍さんの書を見て、ふと思ったのですが、彼は日本習字出身でしょうか...

これに対する回答が非常に的を得ていたので以下引用する。

双雲さんの著書『書愉道』をパラパラ見ていたら、このご兄弟が小学生の頃、書道展の表彰式で撮ったという写真が出てきて、背景の作品に赤い「観峰賞」の紙が貼ってあるのに、びっくりしたことがあります。なぜ誰もこのことに気づかないのでしょうね。平たく言えば、このご兄弟のお母さん(双葉さん)は、日本習字の教室を開いておられ(推測)、ありがちですが、観峰さんの筆遣い(登り龍が有名ですね)に憧れて、(これまた日本習字にありがちですが)十分な臨書もせず、「お習字」崩れのなんちゃって書家になってしまったということではないでしょうか。日本習字の書風は、やはり観峰さん一世一代のものだと思います(私は毎日書展ですが、とっても好きです)。その書風を一筋に極めた高段位允許者の中には、確かに能筆もおられるのですが、観峰さんご自身が「甘え段位。お情け段位」とおっしゃる通信五段(教授免許)程度で、書家を気取っている人もいて(下の方などは、あまりにひどいです)、大きい団体だけに、問題も多いですね。



武田双雲が以前発行していたメルマガには、自らの肩書きを
「ふたば書道会師範 / 日本習字師範 / グラフィックデザイナー」
のように書いていた。
いつどのようにして日本習字の師範資格を取得したのかは不明だが、身内である武田双葉(双葉氏については「書道家のつれづれ日記 武田双雲を斬る・その1」「その2」にて詳しく検証されている)の書道会の師範免状以外で、それなりの資格といえばこの日本習字(正しくは日本習字教育財団)だけとなる。

以前は師匠として、母親の武田双葉とともに坂口泰堂先生、兼城昌山先生という名前も挙げていたが、いつの頃からかその記述はなくなっている(おそらく半年程度の修行だと思われるので(→「インターネットへの登場(2)」参照)きちんと師事していたわけではなかったのだろう)。

また、師匠である母親の武田双葉は以前プロフィールに「井田峰月、坂口泰堂、高野英山 等へ師事」と記述していたが、もともと日本習字出身であるということは周知の事実らしい。
武田双雲・双龍が幼い頃から日本習字に通っていたことからも、それが伺える。
日本習字とは会員数約45万人、支部教室数約14,000教室を誇り、文科省から許可を受けた日本最大規模の書道教育団体であるらしい。
いずれにしても、現在双雲、双葉、双龍のプロフィールには「日本習字」の文字は一切ない。

以前から2ちゃんねるでは武田双雲・双葉親子に対して「日本習字出身」と揶揄する表現がしばしば見られたし、先の知恵袋でも「なぜ誰もこのことに気がつかないのでしょうね」と回答者がびっくりしているが、それが何を意味するのか、書道に関して素人の私にはなかなか理解できなかった。
しかし、先に紹介した知恵袋の記事とともに、次のブログの記事を発見したとき、それが少しわかった気がした。

金持ちサラリーマン Cafe OPAL 店主の日記−原田観峰

、「日本習字だより」と題してあり、白い長髭と白い衣装を風に靡かせて、太い杖を持って大平原に佇む老人の写真が一面に載っている。そしてその写真の上には「観峰宗師シルクロードへ」と大書してあった。これは…、もしかして原田観峰か! こういう人だったのか。初めて見た。思わず笑ってしまいました。
原田観峰とは、書道界の異端児、癌、と言われている人だ。癌、とはいささか言い過ぎかもしれないが、この人が作った「(財)日本習字教育財団」が、現在の一般の人々の書に対する理解を混乱させているのは、まず間違いないだろう。
(中略)
書道に、というか正確には習字に段位を持ち込んだのは、この原田観峰の「(財)日本習字教育財団」なのだ。
(中略)
私はこの原田観峰がどれほどの実力を持った人なのかは知らないが、少なくとも、書道界からは抹殺されている。書道の歴史や現状を述べた本には、ほとんど出てこない。いや、いままで私が読んだ範囲の事ですが。で、書家の人に言わすと、「あれは書道ではない」と断言する。つまり、よく「ボク(わたし)も昔は書道をやっていたよ。初段だったかな」という人が居るが、それは書道ではない。それは習字、それもかなり特殊な習字に過ぎない、という事になるのだ…。
(中略)
書道とは、単に字を上手に書く技術ではない。それは何千年もの歴史と伝統に連なる営為なのだ。だから、書道の歴史に連なっていないと、書道界の人たちにみなされたら、それは書道ではないのだ。前衛書家達は、いくら書から離れている事をやっているとしても、書道界から認知される事によって、かろうじて書たりえている、という事なのだ。
それでもなお、なぜ原田観峰と「(財)日本習字教育財団」は、書道界から認められないのか? という疑問は残る。単に字が下手だ、という意見もあるようだが、私はよく分からない。しかし、今日、この「日本習字だより」を見て、その理由の一端が分かったような気がした。なんというか、その、宗教臭いのだ。原田観峰のルックスもさる事ながら、彼を「宗師」として崇める文章や、世界中をまわって様々な有名人と一緒に写っている写真など。オウム真理教、あるいは創価学会みたいだ。これは、嫌われるだろうなあ。特に、習字教育という衣を纏って、一般人に深く浸透しているなら、なおさらだ。なるほどなあ。



参考:日本習字:創設者のご案内より

本名、孝太郎。観峰[かんぽう]と号した。昭和28(1953)年、西日本書道通信学会(財団法人日本習字教育財団の前身)創立を機に、 「正しい文字美しい文字」の普及活動を展開、その半生を書道教育に尽くした。(中略)著書「書写技能基礎講座」(文部科学省認定社会通信教育教科書)はじめ多数。哲学、宗教にも造詣が深く、自筆箴言集に「観峰名訓書範」等がある。



面白いことに、この「日本習字」の創始者である原田観峰でグーグル検索をかけてみると、上のブログの記事が一番に上がってくる。
Wikipediaで見ても、日本習字教育財団は芸術系の書道団体ではなく、教育系の書道団体と位置づけられている。 ※注2(下記)

日本習字のHPを見ると、教室だけでなく通信教育での資格取得も大々的に行っているようだ。(通信教育で師範免除まで与える団体は少ないらしく、日本習字はその中の一つである)
先に引用した知恵袋の記事で「観峰さんご自身が『甘え段位。お情け段位』とおっしゃる通信五段(教授免許)程度で書家気取り」というくだりは、この通信教育によって取得した教授免許を指していると思われる。

書道関係者にしてみれば、作品の通信添削だけで師範程度の資格を与えるという制度に大きな疑問があり、綺麗に字を書くことができるようになったとしても、師匠の筆遣いや身のこなしなどを直に見ることなしに真の書道(習字ではない)や人に教える技量は習得できないないのではないかという思いがあるのではないだろうか。

他のサイトでも、日本習字の関係者と思われる人が

ちなみに日本習字の場合は、同じ段位であっても認定基準がイマイチ曖昧な部分が有ります。というのは、『あれ?これでもOK?』というような・・・。No.5さんの参考URLにある作品紹介ページを見ていても、正直あまり上手いとは思えないのですが、それでも観峰賞が取れていたりします。段位の認定にも正直ばらつきがあると、以前から疑問を感じていますね。

という書き込みをしているが、これが先の知恵袋で語られていた「問題」の一つではないかと思われる。


「書道をやっている人に言わせればあれは書道でない」と書かれるようなマンモス習字団体で学んだという過去は、「本格的な書道家」による「新しい書道」として独自の書風を売りにしようとする武田親子にとっては触れられたくないことなのかもしれない。
しかし、見る人が見ればその癖をもって「日本習字出身」であることは容易に判断できるようだ。
またたとえ日本習字出身であったとしても、あるいは独学であったとしても、
書道関係者が見て納得できる魅力を作品が持っていたならば、
「『お習字』崩れのなんちゃって書家」「日本習字出身」などのように
揶揄をされることはなかったのではないだろうか。


それにしても、
この日本書道の創始者原田観峰氏の風貌や「宗教臭い」と書かれた印象が、
なぜか武田双雲とかぶって見えたのは私だけだろうか・・・



※注1:
wikipedia-武田双雲のページには、現在「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。」
という但し書きとともに、以下の注意書きが「ノート」に書かれている。

武田氏についての議論および評価は3つの理由で難しいものがあると考えております。1つ目は武田氏の作品制作の思想はこれまでの書の思想の中にあるのにも関わらず全く新しいものであると本人が主張しているため、書・書道に対する芸術の範疇および定義の問題からその主張を検証していく必要があるからです。2つめは、武田氏が書についてどれだけ貢献したかということを検証なしに個人の業績としてカウントできるのかについての議論は瑣末であり、百科事典の性格から権威的に疑問であるからです。3つめは「パフォーマンス書道」が武田氏の世間に知られている、いわゆる売りであるが、精神や知性、人格を重んじる書・書道とは全く別のジャンルとして再定義するべきと考えられているからです。つまり、書家もしくは現在武田氏の主張している書道家という肩書での業績を議論するためには、老成芸術である書・書道の在り方を否定する、書・書道とは異なった新しいジャンルを提起するべきで、もはやウィキペディアでは独自研究の域として掲載できない分野であるからです。この項目を残すのであれば、業績の偉大さや軽重などを述べるのは控え、「パフォーマンス書道家」「元ストリート書道家」として記載するにとどめ、武田氏および他者についての批判や賞賛は場合によって独自研究の条項に該当することを重く受け止めて記述することを要望します。



※注2:
書道に「芸術系団体」と「教育系団体」が存在するという背景について、簡単に補足しておきたい。
芸術系団体とは、社団法人 日展、社団法人 日本書芸院、財団法人 毎日書道会、読売書法会 などを指す。 一方教育系団体とは、全国書教研連盟(書研) 、日本書道教育学会、財団法人 日本書写技能検定協会、日本書道学院、日本教育書道連盟 などを指す。

書道の教育機関については興味深いことに、日本の芸術大学で本格的な書道科あるいは書道専攻の過程を設置しているところはなく、教員養成系大学や大学の教育学部(東京学芸大学教育学部、筑波大学芸術専門学群、新潟教育学部、静岡大学教育学部、大東亜文化大学、等)に書道教育・書写教育の研究室が置かれ、専門教育が施されている。つまり文部省は書道を教育の一種と考えているといえる。

「書道とは、この文字の美的表現法を規格あるしつけのもとに学習しながら、実用として生活を美化し、また趣味として心を豊かにし、個性美を表現していくことである。そして、その学習過程において、人格を練磨し、情操を醇化していく。よって、書道は人間修養の一方法であり、古来、中国では六芸の一つとして尊崇されてきた」

「日本では昭和時代からの大規模な書道展の開催により、書道が近代芸術としての地位を確立した」(Wikipediaより)
ため、書道には教育的側面と芸術的側面の2つの要素が複雑に絡み合って存在しているということができる。

石川九楊著「書とはどういう芸術か 筆触の美学」より

このように見てくると、(書道は)華道や茶道のように、全面的に民間に依存している形態と似てはいるが異なり、また美術のように公の美術大学で教育を授けられる形態とも異なり、また文学のように、大学に研究者、民間に作家と棲み分けている形態とも異なる、特異な書の構造が透けて見えてくる。いずれにも似ながら、いずれとも異なった形態で書は存在している。
柔道や剣道、以後や将棋、算盤のように、習字や書道には級段位認定制度もある。しかし、書道のそれは、他のジャンルのように半ば公的なものではなく、まったく私的なものである。級段位の認定制度は、書道団体、結社の数だけ、つまり無数にある。本書の読者のひとりが思い立って、明日から書道団体を名乗り、勝手に級や段位をつけ、師範認定をしてもなんらさしつかえない。ときどき、芸能人やスポーツ選手が「書道○段」と名乗り、マスコミが「達筆、名筆」とはやし立てているのを見かけるが、書道の級段位はいいかげんなものにすぎぬから、これほど滑稽なことはない。


小林秀雄の評論が『現代国語』の教科書に引用されていようとも、小林秀雄の評論は受験生のテキストではないように、王義之や顔真卿の書もまた、書道の手本ではなく、厳然たる歴史的表現である。『上手い』『下手』、習字、書道、書道展という教育、稽古の観点からは、書は決してその新の姿を現さない。書の表現史の末席に、可能であるかどうか分からぬが現在の書の表現がある。その表現を支える底辺に、習字、書道教育、書道展があるという視点を回復しない限り、ほんとうの書の理解、またそのおもしろさには出会えない。
書道は教育であるという論から知識人がどれほど自由でありうるかは措くとしても、知識人の書道や書道界の現状へのいらだちの原因はここにある。



テーマ:書道 - ジャンル:学問・文化・芸術

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